『ホログラフィック・ユニバース(投影された宇宙)』前編

これが恐らく結論

精神世界に足を踏み入れて12年。本当に色々な本に出会ってきましたが、とうとう出会うべきものに出会ったか、という感じです。『投影された宇宙-ホログラフィック・ユニバースへの招待』(Holographic Universe)という本です。

僕の場合、大学院時代に読んだ立花隆さんの本『臨死体験 上・下』が最初にスピリチュアルな世界に興味を持つきっかけになりましたが(2004年頃)、その後小休止、本格的な精神世界の探訪には2008年春頃のうつ病の克服のタイミングまで待つことになりました。

僕の場合、常識(ほぼ科学とニアリーイコールの意味)ではどうにも説明できない神秘的で深遠な何かが存在する、できるだけその存在に触れて、常識まみれで頑固になってしまっている人々により多くの選択肢を示してあげたいというのがモチベーションになって、精神疾患の克服方法から代替医療、神道と仏教、幽体離脱や明晰夢、引き寄せの法則、願望実現や永久機関、UFO、地球空洞説といったありとあらゆる分野についての書籍を読みあさりました。これらはそれぞれに素晴らしく、その智慧に触れている間は少なくとも私の心はとても満たされたものになり幸せでした。しかし同時に、種々の分野を学べば学ぶ程に、これだけ、『神がかった存在』によってもたらされたモノであるはずの智慧という智慧が、互いに矛盾しているというか、人々の対立を促しているというか、人を幸福に導くべく地球にもたらされたはずのものがいがみ合いを助長しているということに『何故』という疑問が深まるばかりでした。

それは例えば日本の史実で言えば戦中の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく。神道を国教として日本国をまとめ上げるために仏教を排除した動き)の運動であったり、UFOを含む地球外生命体から持たされる情報によると地球はネガティブな存在に牛耳られた惑星で一種の牧場の様なものだと表されておきながらそんな人類を救おうと実効性のある手段を提供してくれるポジティブな知的生命体が皆無なのは何故なのだろうか、とか引き寄せの法則によると究極的には地球を含む物質的に知覚可能な現実というのも実は人間達の深層心理が作り出した『合意の現実』なるものであってただの映像に過ぎないんだと言いながら、2012年いあれほど色々な人達がアセンションアセンションと叫んでおきながら何一つ変化らしい変化がおきなかったのと、私の目の前には相変わらず科学だけが厳然と存在し続けているのは何故なのか、とか原発の副産物である放射能は物理世界だけでなくそれよりも上位の波動の世界にとっても悪影響があるのでそちらの世界からも問題視されているとされながら、実は地球の土壌には放射性廃棄物を好んで食べて分解する微生物がいるおかげで何十年も経ったのちにはまるでその悪影響がなくなってしまうらしいという説ですとか。

それぞれがそれぞれに有り難い話ではあるのですが、それぞれが別次元にいたり矛盾していたりという様相でまことにまとりまりがなく、どう扱えば綺麗にこの宇宙で起きている出来事というのを網羅的・統一的に説明できるようになるのだろうかということを考えあぐねていたのです。本来もっと世界というものはシンプルで、綺麗に表現が可能なものであるはずなのですが。

投影された宇宙という本

そんな折、Amazonのリコメンドに現れて気になったのでWishListの中にはずっと入れていたのですが買わず仕舞いで終わっていたのがこの『ホログラフィック・ユニバース 投影された宇宙』という書籍でした。

ヘミシンクの坂本政道さんがフォーカスの確か100を超える次元にアクセスした際、そこで会話した知的生命体から『宇宙というのは様々な種類があり、その宇宙ごとにどんな法則が成立しても自由である』ということを言われた一節がありました。それと、私のうつ病を治してくれたセラピストの先生が言っていたのは『人一人がその目で見る現実というのは、その人の深層心理を含めた精神の投影された鏡像のようなもの』ということでした。そして私自身もトレーニングによって体験した明晰夢の世界。それは現実よりも遥かにリアルで鮮やかな、そして自由自在になる世界でした。こんなことから考察すると、現実はとてもリアルではあるが、何か没入型のVR空間のようなものであって恐ろしく現実(っぽく)存在していてどんなに瞑想をして変性意識の体験をしたところで最終的には引き戻されてくる世界ではあるが、究極的には『それらしく』見せられているだけの触れることのできる仮想現実であり夢と大差ないものなのかもしれない。それであれば明晰夢の世界と同様に、どんな法則が全体的に成り立っていても局所的に成り立っていても、それらが矛盾をはらんだものであったとしても『それはそういうもの』『そうデザインされたもの』として何も不思議ではなくなります。

世界から戦争がなくならないのは?⇒自分と相手を互いに善だ悪だと決めつけて殺し合うわけですが、そこに生じる愛別離苦だったり義憤だったり悲劇だったり相手を刺したり刺されたりという体験がしてみたいために、言わばそういうドラマが見てみたいために必要なものとして創造されている。(戦争映画も戦争を題材としたゲームも、それの悲惨さを伝える為に、いわば戦争を防ぐために作られていますが、それよりも純粋に、そういう場をリスクゼロの立場から眺めることができる、体験できるという人々の好奇心がそのニーズを支えていると思いませんか?)

世界から貧困がなくならないのは?⇒貧しいという状態、富んでいるという状態がそれぞれ相対的なものとして存在していないと、お互いがお互いをそういうものとして認知することができない、貧しい状態、富んでいる状態というものがどういうものかを体験することができない。富んでいる状態から没落するという状態の変化を体験できない、貧しい状態からアメリカンドリームを成し遂げて富豪になるという体験もできない。

解決すべき課題が次から次へと現れてくる⇒火事が一切発生しない世界が実現した時、おそらくそれを両手で歓迎できる消防士はいない。環境問題に取り組むNPO、貧困の是正のために活動する慈善事業家、自動虐待を防ぐために全てを投げ打って働くボランティアの人々などなど、間違いなく素晴らしい活動をなさっていることはその通りなのですが、その『課題がなければ』自分のアイデンティティを失ってしまうのではないか?次から次へと現れる難題に取り組む姿、英雄視される自分というものを追い求めて、次から次へと問題を引き寄せて、問題が無くなること自体はほとんど望んでなどいないのではないか?スーパーマリオをプレイするのでも、山があったり谷があったり、炎の棒が回って迫ったりというアスレチックが存在してそれを乗り越えていくから面白味がある。これが何のリスクもありはしないタダの平坦な道がゴールまで延々と続いているというものだったとしたら、それはもはやゲームとして成立しないだろう。売れないだろう。

諸々の事象を考えてみるに、どうもこの世界は物理法則でそうなっているというよりは、人なり誰からなりのかなり大きな意図でもって、あらゆるタイプの体験をリアルにしてみたいのでそういう状況・課題を敢えて作り出した上で、時にはそれが解決でき、時にはそれに押しつぶされて、という体験を延々と続けることができる空間なのではないか、ということに思い至るのです。その体験をするためには、物語が成立していれば良いので全体を統べる綺麗な法則が無くても良い。例えば映画は1本の映画で完全に独立した世界であって、別の映画とは完全に世界が分けてある。同じ宇宙を扱った映画であっても、スタートレックとスターウォーズの世界は、全く別の世界で交差する点を持たない。こんな具合に、全体を説明する綺麗な法則というモノは特に必要とされない。それと同じ事が我々が見ている現実にも当てはまるので、物理法則という最低限のものはあるけれどもそれ以外には誰が何を言おうが、何が起きようが勝手であって混沌とした状態を所与のものとするのが我々のいる宇宙。そうであれば矛盾に満ちたこの世界も『そういうもの』として納得できるという気がしていたところでした。つまりは、皆で巨大な『夢』を見ているということ。それであれば、どんなに荒唐無稽な世界であっても何の問題もなくなるのです。

投影された現実を科学する

私のこんな漠然とした感覚をものの見事に科学的なアプローチによって実証してくれるのがこのホログラフィック・ユニバースという本でした。この本の内容で節々で鳥肌が立つような感覚を覚えるのは、一番最初にスピリチュアルな世界に踏み入れた書籍『臨死体験』の時以来です。『部分の中に全体の情報が含まれる』一言で言われるとなんのこっちゃと思われるのが普通の感覚だとは思われますが、例えば遺伝子、例えばフラクタル図形、といった具合に自然の中にはそういった性質を持つモノが沢山あります。ホログラフと聞くと、平面で七色に輝く限定版シールとかのキラキラしたアレ、と想起するかもしれません。かなり近いものではあるのですが少し違います。ホログラムとは、本来立体像のことを示しており、光の位相が記録されているために見る角度を変えるとその記録された立体像の別の側面を見ることができるという特殊な光の記録方式です。通常、光の位相を記録することのできる特殊なフィルムに、レーザー光線を使って位相を記録します。そのフィルムの中には立体像を肉眼で見ることができます。最近ではより進んで、動画を3Dホログラムで再生したりといった機材も市場に出回っているようです。

ホログラムは、肉眼で見るとまさにそこにその物体があるように視認されます。ところが手で触れようとしてもそれはただの『光の集まり』であるために、すり抜けてしまいます。一定の空間の中に広がりを持っているという意味で体積を持っているのですが、物質ではないために触れることは一切叶いません。

部分に全体の情報を保持している

特に外部からのレーザー光等を使わず、位相が保存されているタイプのフィルムで見るホログラムの場合に、そのフィルムを真っ二つに切ると、その像が失われるかというと決してそんなことはなく、像が多少薄くはなるのですが相変わらずホログラムとしてのその像が残って見えるのです。(加えて、フィルムが小さくなってしまったので窓が狭くなったようなイメージになります)つまり、細切れにされて『部分』になったとしても全体の情報を保持しているのです。これがホログラムの一般的な性質です。

この『部分に全体の情報が保存されている』という不思議な性質が、人間や動物の脳みそに成立するということが知られています。例えば、サンショウウオという生物は脳を摘出されると昏睡状態になりますが、その取り出した脳を元に戻してやると何事も無かったかのように活動を再開します。ここまでならまだしも、脳をひっくり返して元に戻したり、小さく切って戻したり、さらにその一部しか戻さなかったりということをしても、サンショウウオは生きる能力を全く失わないのです。これは、脳がたんぱく質のコンピューターであって、ある部分には例えば運動を司る記憶が入っており、ある部分には生まれてからの記憶が残っており、ある部分には味覚が保存されており、といった具合に各部分にそれぞれの役割があるという通常の考え方では全く通用しません。

人間の脳も右脳や左脳、前頭葉やら大脳新皮質やらといった具合に場所毎に名称がついておりそのそれぞれに役割があるものと考えられています。ところが、上記のサンショウウオの事例にもあるように、一部の人々である場所の脳を外科的に取り出してしまったのに、多少記憶が曖昧になることはあってもその記憶の丸ごとを失うことはない、ということが報告されています。ということは、人間の脳はコンピューターの様に、一時的な記憶を保存するためのメモリ、長期的な情報を保管するためのハードディスクと、そういった機能単位の分担は行われてるわけではなく、全体として1つのファンクションを為しており、多少処理能力が落ちるかも知れないけれども一部分が全体と同等の役割を担うということができるという性質を持っている、と考えることもできるのです。事物をどこまでもファンクションに分割して理解していくというのが科学の基本スタンスでしたが、どうもそのスタンスが成り立たない分野が確かにある。これは私にとってかなりの衝撃でした。

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