古典的な瞑想手法と、科学的な瞑想手法

エニシの基本的なスタンスは、大脳生理学と言いますか、外部の刺激によってもたらされる脳波の誘導効果を用いた科学的な瞑想メソッドを用いる、ということです。幽体離脱が起きるときの特徴的な脳波の研究から、その脳波に誘導すれば同様の状態を人に体験させることができるはず、と考えることはすごく自然で、ヘミシンクでは実際そういうパッケージが存在していてそれを使って幽体離脱が可能になったという方の本も存在します。(とみながむんくさんがその代表例)

これに対して、ごく古典的な瞑想手法というのは、五感のあらゆるところからの刺激を遮断して(感覚遮断)完璧な静寂を作り出し、さらに雑念も払った先での変性意識状態を体験することに主眼を置いています。

どちらが優れているのか、ということは簡単に語ることは難しく、そもそも脳波の状態=変性意識の各状態という図式が成り立つのか、という議論もあったりします。チベットの高僧が得た境地の瞑想の「結果」(あるいは副産物と言うべきでしょうか)としてその特徴的な脳波が単に出ているだけ、ということが事実だったとすると、ごく一般の常人に対して脳波だけその状態に持って行ったところで何も体験はできないということになります。(例えば、長年掛けて勉強した結果として大学という場所の教室に座っている大学生がいるとして、幼稚園児を同じ大学の同じ教室にポンと座らせたからといって大学生になるわけではない、みたいなことです。)

私の場合体験的に、特定の音や光の刺激によってリラックス状態を効率良く作り出したりできるということは分かっているため科学的な瞑想のアプローチの方を好んでいるのですが、不思議なことに幽体離脱という点で言うと、ヘミシンクの「体外への旅パッケージ」よりも書籍「幽体離脱マニュアル」で語られていた「周天法」と「光体法」というメソッドの方があっという間に結果が出ました。(なんと、三日目の朝の話でした)

こんなわけで、数千年にわたる時間の中で経験的に導き出された瞑想法と、科学の瞑想法、私個人の中ではどちらが優れているということには全然決着がついていません(笑)ただ特徴として古典的な瞑想法は、静寂を作り出した後は自然な流れに任せるというか、特定の脳波に向かわせるという指向性は無いです。科学的な瞑想手法はやっぱりどこまでも実証主義的で、特定の脳波の時に特定の体験ができるという話があれば、その脳波に向かって脳を誘導・固定させるという指向性を持っています。

ライトアンドサウンドの推進派のあるかたの言葉を借りると

「どちらの手法を使っても瞑想で目指す頂上は同じ。ただ、登山道が何通りもあって、古典的な瞑想は本当にハイキングで地道に、登山道を歩いて行くというイメージになる。時間も掛かるし、途中で迷う可能性もある。科学的な瞑想は、既に山に設置されたリフトに乗って、8合目くらいまでのところまで自動的に運んでいって貰えるような感じ。」

とのこと。さすがに一気に悟りにまで至れるわけではないが、8合目に至るだけでも10年単位の歳月が必要だったのが、ごく簡単にそこに至れる、ということです。

ただ、幽体離脱については古典的な手法の方が私の場合打率が良かったりという事実もあるので、日常の中に古典的な手法も取り入れてみることにしました。それがこちらの書籍です。

体験が出ましたらまたご報告します。

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