覚者の生き方-俗世で背負い込むものは最低限。

葦原先生の話を聞いて思ったことは、彼は俗世間のもので背負っていたものは本当に最低限だったということ。

家は家賃月1500円。真冬でも衣装はTシャツ一枚。親族と呼べる人もおらず。ひたすら黎明の執筆に打ち込んだ。物理的な肉体を纏っているからこそ、物理的な限界がある。覚者は生まれてくる際に自分がなすべき仕事に最も合致したルートを歩める肉体を選んで生まれてきているに違いない。わざと孤独を選んで生まれてきたのかもしれない。

そうすると、私について見てみると

・普通のサラリーマンで、課長。

・35年のローンで買った家がある。

・家内と娘がいる。

生活のためにも道義的にも、今すぐ捨てろといわれてそうできる類いのものじゃない。仏陀にしても、悟りを得る為に全ての俗世間との関わりを捨てているわけで、残された家族からしたらどんでもないやつだった訳で(笑)

僕の活動は平日の夜と土日に限られる。この肉体が持っている制約と社会的なしがらみをひきずった状態で、どこまでの天命が成し遂げられるのか。ちょっと不安なのです。

しかし、葦原先生もおっしゃっていた。世界の人々は全てがそれぞれパズルの1ピースであって、誰が尊く、だれが卑しくと言う話ではない。それぞれに各々の役割がある。それを精一杯こなすだけなのだと。

だけどもう少し時間が、社会的起業家として活動するための時間が欲しいと思う今日この頃です。

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